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| 波切の正月迎え(名乗り・注連縄切り)
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| 三重県の祭り見物に参考にしている伊勢志摩編集室編「三重の祭」を見ていて、「海に生きる町の正月迎え、『名のり・しめ切り・火祭り』、波切漁港(大王町)」という項で、「名のり」の写真は、中国貴州省の肇興村で大晦日に行われる「順利唱歌」にそっくりのようで、かねてから見に行きたいと思っていて、今年はバイトのシフトが久々に12月31日~1月2日まで空いたので、見に行くことにした。 12月31日は前日からの夜勤明けで、10時頃まで寝て軽くブランチを食べ、12時半出発。 浜松西から伊勢西までは高速道路を走り、途中のSAで味噌カツ丼で昼食として、16時半、波切の漁港に到着。 無料の波切漁港環境公園駐車場があり、そこに落ち着く。 まだ明るいので、港から波切神社周りを歩く。 入り江の向こう側に波切神社の鳥居が見え、まずは参拝。 写真は、ハードディスクに保存したものが開くと画像がおかしくなってしまい、サムネイル画像をスクリーンショットでコピーして拡大したため画像があらくなってしまった。 |
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人通りがなく、行事が行われるんだろうかと不安になったが、散歩で出会った人に祭りがあるかどうか聞いてみると、「注連縄切り」は年が明けてからで、「名乗り」はコミュニティーセンターに集まるとのことで、とりあえずコミュニティーセンターへ行き、そこで準備していた人に聞くと18時半ごろに始まるとのことで、名乗りの一行は16区画に分かれて各家々を周るそうだ。 |
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まだ時間があったので車に戻り、持参したカップ蕎麦で腹ごしらえの年越し蕎麦とした。 「名乗り」というのは、伊勢志摩編集室編「三重の祭」によると、 「大晦日の夜8時頃、漁協(今はコミュニティーセンター横の桂昌寺駐車場)に集まった船頭と子供たちは、長老らの祝い歌に送られ、いくつかの組( 今回は16組)に分かれて”名のり”へと出発していく。一組が一隻の船に見立てられており、赤半纏の船頭につづく子供らが水夫(かこ)というわけだ。 民家の玄関口では、一家総出で一行を迎える。船頭がまず『アータラシーキノー・・・』と新年の祝詞をとなえ、続いて『こちらの旦那の商売どとは』『一番よ、一番よ』『かかあの針仕事は』『一番よ、一番よ』という具合に、船頭と水夫が掛け合いでその家をほめそやす。名のりが終わると、家人は餅や祝儀袋を手渡し一行をねぎらうのだ。こうして忌中を除くすべての家で名のりが行われる。」 「祝いことば」は、「伊勢志摩きらり千選」のHPによると、 |
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18時15分ごろコミュニティーセンターへ行くと、すでに名乗りの一行は出発したあとで、急いであっちへ行ったという方向へ向かった。 幸い、ちょと速足で歩いてすぐに追いついた。 |
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古からの漁村特有の細い路地を一軒一軒周っていく。 |
1時間ほど10軒ほどの「名乗り」をついてまわったが疲れてしまい、同じ事の繰り返しなので離脱することにした。 自分がどこにいるのかわからなかったが、グーグルマップで確認してコミュニティーセンターへの道もわかり、とりあえず戻ることができた。 年明けの行事の「注連縄切り」は、0時から、ということで一旦車に戻り一休み、23時過ぎにコミュニティーセンターへ行ってみた。 「注連縄切り」は、「伊勢志摩きらり千選」のHPによると、 「山の神の祠がある場所では、元旦の1時、着物姿の男性が、道をふさぐように張られた注連縄を、気合もろとも日本刀で一気に断ち切ります。 いわば、波切集落への出入り口であるこの場所で、新年の最初に、外から来る悪霊邪神を威嚇するために行うのだそうです。 波切にはこうした出入り口が、海岸側の「天満」と山側の「谷奥」の二つあり、双方でシメ切が行われていましたが、5年ほど前から山側だけになったようです。」 「新しきよき年を向かえるために、新しき火を迎えて、波切の街を「おきよめする」 という意味があるのでしょう。」 0時に数人の若者がコミュニティーセンター前から藁の松明に火をつけて山の神の祠のある方へ向かう、ということでそれについていこうと思ったが、彼らは走って行く、というのでついていくのは無理だろうと、私は先に山の神の祠のある道に立てられた松の木を目指して先回りすることにした。 コミュニティーセンターから山の神の祠までの道が、町を南北にはしるメイン道路のようだ。 |
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山の神の祠は、メイン道路から少し入ったところにあり、一つは道路の行く方向を向いて幟が立てられいて、これが「山の神」のようで、そのすぐ横に西を向いてもう一つ祠がある。 |
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1時から男衆が道路の両脇に立てられた松の木に注連縄を張り始め、準備ができると若衆が藁松明を持って走ってきて、注連縄の町側に敷かれた鉄板の上でかがり火が焚かれた。 |
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そして紋付袴姿の頭屋が「この注連縄より内して入る者は切って切って切りまくる」と注連縄を一刀両断に断ち切った。 注連縄が切られると、若衆はまた藁松明に火をつけ、波切漁港へ持っていき、そこに積み上げられた藁に火をつけ、燃えがる炎に竹竿をさして先端に火をつけると、その竹竿を掲げて波切神社に持っていき、奉納して行事が終わる。 |
私も。波切神社で初詣をして、車に戻り、2時ごろから寝袋にくるまって眠りについた。 朝7時すぎに眼が覚め、初日の出のお日様はすでに水平線の上にあった。 |
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せっかくだから、と波切の町を散歩した。 まずはコミュニティーセンターへ向かい、昨晩の道をたどることにした。 コミュニティーセンターには、大王町のシンボルの大王灯台が立っている。 |
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コミュニティーセンター横の道を行くとすぐの空地があり、その一画に石の祠が二つあった。 「波切にはこうした出入り口が、海岸側の「天満」と山側の「谷奥」の二つあり、双方でシメ切が行われていました」とあったので、ここが「海岸側の『天満』」だろうと思う。 山側も海岸側も二つの祠があり、町の出入口にあるので、いわゆる境や辻の神様の「塞ノ神」を祀っているんだろうと思う。 私が興味を持っている中国貴州省などの海の民「越」の末裔の少数民族である「侗族」も村の入り口にに風雨橋・花橋とよばれる橋をかけ、村の外側に「土地神」として男女二神を祀る風習があり、ここ波切でも町の出入口にそれぞれ二つの祠があるので、この二つの祠は男女二神を祀っているんだろうと思った。 |
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町屋の軒先には、「蘇民将来子孫家、門」や「笑門」の注連縄がつるされている。 2011年ごろは伊勢神宮の125社めぐりをしていて、「松下社(まつしたやしろ)」へ行ったとき、そこに神社の由来などを記した栞があって、松下社がその注連縄を頒布していることを知った。 その栞には、「蘇民将来伝説」についても記されている。 「昔、素蓋鳴尊が南の国へ行く途中、暴風雨に会って非常に困り一夜の宿をさがしたそこには、裕福な巨旦将来と貧しい蘇民将来という兄弟が住んでいた。裕福であった兄の巨旦が宿することを拒み、慈悲の心厚い貧しい弟の蘇民が、尊を温かく迎えて一夜の宿を貸し、粟の粗飯を差し上げた。尊はアサハの国から疫病が来る(暴疫鬼来する)ことを察し、蘇民に茅輪(ちのわ)を作って家に懸けさせた。翌日になると風雨はおさまり上天気になったが蘇民の一家を除いて、一村みんな疫病にやられてしまった。尊は別れる時、これからも難、禍を免れるために、蘇民将来子孫としるして門楣(まぐさ)に懸けるように仰せられた。そして現在もそのことをまもっている。」 また、「笑門」というのは、どんな本かは覚えが無いのだが、随分前に読んだ本に、本来は「蘇民将来の門」の「将門」であったのが、平将門の乱があって、「将門」と掲げるのはお上に対してはばかる、ということで、「将」の字を「笑」に変えた、という説があった。 |
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注連縄切りが行われた山側の「谷奥」の祠も明るいところで見てみようと行ってみると、祠の前面に一対二個の「石」が祀られていることに気が付いた。 「石」を祀るのは、やはり侗族の村や苗族の村でもよく見たが、ここでは一対というのが男女の塞ノ神を表しているように思われた。 |
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せっかくだからと、大王崎灯台にも行ってみた。 天気が良く、灯台へ行って海を眺めると「すがすがしいや!」と、いい年を迎えたと思う。 |
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灯台近くで見つけた石の「祠」 |
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海岸から村へ登り口にある石を祀る祠。 |
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そこから少し上った見晴らしの良いところにある石を祀る祠。 |
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こうして歩いていると、侗族の村を歩いているような気分になり、やはり天孫降臨前の出雲を代表とした文化は、海洋民族の「越」なんだろうなあ、との思いを強くした。 上ったり下りたり、3時間ほど散策して、帰途につくことにした。 帰りは、伊勢からも国道23号のバイパスを走り、5時間ほどで帰り着いた。 |
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